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始めてみよう、自然農

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「妙なる畑の会」のレポート    小田詩世


10月8〜10日の日程で行なわれた自然農の全国集会に参加して来ました。
今年は、一日目は奈良の川口さんの家と田畑の見学、二日目は三重県の赤目自然農塾の見学、三日目は川口さんのお話と、オプションで大阪と三重の実践者の方の田畑の見学という日程でした。
今年お世話係をして下さったのは赤目自然農塾の方たちです。
年一回、全国から自然農の実践者が集まるこの会は、参加者の方たちのエネルギーに満ちて、通常では学べないような、深い真理のようなものを学べる素晴らしい場となっています。
今年も、多くの学びを得ることができ、三日間どっぷりと自然農の世界にひたり、さまざまなことを思い、感じてきました。
今回参加して、私なりの自然農(名前も何だっていい)を、川口さんの言葉ではなく、私自身の言葉できちんと話せるようにならなければと、わが身を振り返って思ったことでした。

2005年 妙なる畑 全国実践者の会 レポート

≪1日目≫川口さんの田畑の見学

以前にも2回ほど見た事はあったのですが、27年の歳月が積み重ねられた川口さんの田んぼは、それは素晴らしいものでした。自然農は、続ければ続けるほどその土地は豊かになっていく、ということをあらためて実感しました。
皆さんにも、ぜひ、自然農で27年たった田んぼの姿を、その豊かさ、美しさを、見て感じてもらいたいです。

≪1日目夜≫ 川口さんのお話と質疑応答
「自然農の心と人生 そして方法技術」

・自然農を始めて、最初の3年はダメだった(米)。野菜も、7、8年まではうまく対応できないことがあった。気候・土質・重ねてきた歴史(亡骸の層)によって応じ方は異なる。適確にやるのは難しく、毎年一年生。
経験を通して色んな事に気づく。対応する。「これでうまくいくんだな」と決まったら定まってくると思ったが、10年、14年、15年経て、種まきをていねいにやっても芽が出ないということが起こった。
今までしてきたことはマイナスだったことに気づいた。
例えば、自然農に切り換えて間もない頃は土に力がないので苗床に米ヌカを振ることをやってきたが、14、5年経過してからは、それは、してはいけないことになってきた。
養分過多で発芽障害が起きたのだった。もう補いはいらなくなった。
たんぼの足元の様子が変われば、やるべきことは変わる。
草や水との関係、種の下ろし方において同じことが言える。
しかし、変化の中でも、普遍の真理がある。
作物にたずねながら、足元の様子に、天候にたずねながら、いちずに答えを探していたら、それは見えてくる。
手の貸し方は、今日正しいことは、明日には間違い。

・農業は、生命あるものとして、中心においてもいい程の大事なこと。そして自然農は、永続可能な栽培の仕方。
しかし、農は大きな柱ではあるが、この柱一本では立ち得ない。
当たり前に作物を育てられるようになった上で、どのように生きるか。命の世界に身を置きながら農的暮らしをしていると、全てをあらしめている本体の営みに気づかされる。
私の生きていることの意義と意味が見えてくる。
存在の意味を、理屈を超えて直感する。

・「周りから、苦情がきて(虫や草について)、自然農を続けることが難しくなっているが、川口さんはどのように対応してこられたのか」僕はこれをしたい、という思いが定まっているので、それができなくならないような対応をしていく。
このやり方が正しいからとか、環境にいいからとか、一切言わない。
この素晴らしさを村の人に伝えたいとか、わかってもらいたいという思いでいてはダメ。
私は、私のためにやっている。
最初は、誤解や不安などから色々言われた。
しかし、自分はこれしかない、これでやっていくという思いが定まっていれば、それができなくならないように対応していくしかない。
ひとり一人に対する応じ方はテクニックではない。
もし、やめてしまった場合、どのような背景があったとしても、「私はしたくなくなった。私の人生においてしないことを選択した。」と言える。
私を生きる、私を治めることを基本にした上で、聞く耳を持つ人に、求められる人に伝えていく。
農薬がよくないことは、多くの人はもう知っている。知っているが、周りがそうならないので・・・。
聞く耳を持たない人に説明すると、余計カーッとなる。こちらもカーッとなってしまう。
その人たちも、(川口さんの)田んぼの姿、お米の姿を見て、農薬や肥料を使わなくてもできることは知っている。

≪2日目≫赤目自然農塾見学

初めて訪れる赤目自然農塾は、私もここへ通ってやってみたい!と思ったほど、自由で、豊かで、楽しい雰囲気にあふれていました。
ただ農作業のみをするのではなく、土木工事を皆でやったり、道具小屋や、トイレなども自分たちで造ったもので、農的暮らしをするための様々な
技術をも学べるようになっていて、赤目はまるでPC塾実習コースみたいだと思いました。
そして、信じられないことに、ここでは川口さんをはじめ、お世話をして下さるスタッフの方々は皆さん全て無報酬でやっていらっしゃって、塾生からは一切謝礼などは取っていない、ということでした。
お金も何もなくても、学びたいと思う人の誰もが、学べる場になっているのです。
お金、労力は出したい人が出すという形だそうです。
そして、規則も、約束事も一切なく、自由な雰囲気の中で、自分の好きなときに来て好きなだけ農作業ができるのです。
月一回の集合日には、川口さんが来られて指導してくださいます。
この、赤目自然農塾の運営方法については、本当に感動しました。
スタッフの方たちも皆とても感じのいい方ばかりでした。
赤目自然農塾は、このやり方でもう14年続いているということです。
(次の塾の時、やっさんに、少し赤目の事について詳しく聞いてみたいですね)

≪2日目夜≫
川口さん、赤目自然農塾スタッフの方たちによるお話と質疑応答

・赤目の学びの場では、自分たちの汚れをできるだけ周りに出さないようにしている。美しく整えておけるように、さわやかに、きれいに。
日常生活から離れて、本来のところに立てるように。
最も根本にあるのは、命のことがわかるようにすること。

・「川口さんが以前、『僕は出家していなくても覚めていられるんです』と言っておられたが、最終的な目的は、日常生活でいかに覚めていられるかではないか。」
日常事はあるが、それにとらわれないで、それは忘れて、大自然の営みの中に身を置いて作業する。
作業するうちに日常生活から離れ、覚めてくる。
日常ごとを持ち込まないように、生活の疲れを表さないように。
例えば、急いで作業する、急いで食事する、その後にゴミを残さない。
時にはそういう汚れは出る。気づいた人がその汚れを消す。拾っていく。
「汚さないように」、とか「落さないように」ということは言わないで、気づいた人が拾う。
俗からはなれて隠とん生活をするという形があるが、僕は俗社会に居ながら自らの俗身から離れる、人として成長していく、ということをあるとき
から思いを定めた。

・赤目自然農塾について
方法技術を身に付ける。その背景にある理が伝わるように。
理を伴なった方法技術。
人としてのいのちの世界に応じた、私のあり方を気づく。認識していく。
お米を育てる上での本当の自立は、すなわち人としての本当の自立であり、そこへ行けるように。
塾生の存在を尊重する。
先生、生徒の別はあるが、人としての尊さは同じ。先生は先生の立場、生徒は生徒の立場、そこは区別はあるが、生徒の本当の自立を目指す。
一切、規則、約束事は作らない。本当の自由の中で、開放された中で育ってもらう。
我がままに対しては許さない、つまり応じない、という対応をする。
束縛しないで、自由な中で、お米や野菜を育てることを通じて、真の自立をしてもらう。

・教育について
ダメなものは絶対ダメ、死んでもダメと言う。それでも子供が絶対すると言えば、それは何も言わない。それをやって、子供がどう思うか。
親子は親子の別なく一つの営み。一体であると同時に別々。それぞれを尊重する。
私も尊いのだけれど、わが子の姿を見て、その尊さに気づかされる。
子供は基本的に尊重する。損ねないように。
自然界は、真そのもの、善そのもの、美そのものであるが、人間は、善悪、美醜があるので、善悪をはっきりさせる。よくないものはよくないと言い通す。
レベルの高いものはよい、低いものはダメと言い通す。
しかし、子供はレベルの低いほうへ行くが、そのときは見守る。そのうち、ダメなので壁にぶち当たる。
子供が決められなくても、親の思いは押し付けない。
子供の成長は親のあり方、生き方の結果。
結果が出たところで修正は効かない。だから今が大事。
人生における人としての自立、精神面の自立。喜びの深い、豊かで美しい人生をまっとうできる人になって欲しい。

・自然界の中では、人というのは特殊。美しいすごい存在であると同時に、魂を見失ってしまう存在。人というのはそのような存在。
成長というのは悪から離れて、真・善・美へ行くこと。
成長すると、人も自然界の稲のように完熟した美しい姿になる。
人がそのように成熟すると、他に類を見ない美しい姿になる。人はすごい、抜きん出た技術能力を持っている。


≪三日目≫
川口さん講演と質疑応答

・僕も赤目自然農塾において学ぶ立場。その置かれている立場において学ぶ姿勢でいなければならない。
学びの場は、学ぶ人がいなくなれば速やかに終わる。
生涯を通じて、生活の中での、言葉を通して次の世代へ伝わっていけば、学びの場は必要なくなる。

・本体の営みの中で今日があり、昨日があり、明日があるが、生きることができるのは、今。本体は、今の中に過去、現在、未来がある。
営みにおいては別なき今。
耕さないということは、この流れを断ち切らないこと。
耕すことは、過去を無にしてしまうこと。
耕さなければ、生きる舞台は約束されている。
断ち切らなければ、今が約束されていると同時に明日も約束されている。
耕さなければ、作物以外の草草、小動物のいのちも約束されている。
適確に手を貸してあげられる方法と技術が求められる。
技術が習得できないとダメ。しかし全ての技術は習得できない。
その時そのときに応じて常に適確に手が動くように、判断できる私になっていないと、目覚めていないとダメ。

・それぞれが、その展開の中で、わがいのちを全うする事に必要なものに、その人にふさわしいものに出会う。喜びを伴なうものであれ、悲しみを伴なうものであれ。
それを生かさないと、僕の存在がなくなる。家族の存在もなくなる。

・「自然農で食べていけるか、又、それを他人にどう示せるのか。」
一つのこの私をどれだけ全うできるか、私を治めることが大事。
人を治める前に私を、国を治める前に、民を治める前に私を治めることが大事。
いかに言葉を尽くしても、目的は達せられない。
本当のものを手にしたら、人も、お金も、必要なものもついてくる。
できたらする、できなかったらしない、というところに立っていてはできない。
数字で示しても、その人は救われない。
このいのちの宿っている精神が、魂が救われないと・・・
お金を正確に位置づけないといけない。お金は、生き方を明確にした中であとからついてくる。
先にお金を、ではいつまでたってもお金はついてこない。
消費者のいのちを救える作物を作らなければ、生産者は生かされない。
消費者と生産者は自他の別なく一体の営み。
私だけにポイントを置くと、答えは出ない。
私の生き方が、他も生きていける生き方。

・人に恵まれる、お金に恵まれる、明日恵まれるかどうかは、今日の生き方にかかっている。
いつもぎりぎりだったが、ここまで来た。
私がその時その時を見事に生きなかったらダメ。


・「尊敬する人は誰ですか」
その時その時求めていたら、必要なものに出会った。多くは書物を通して。
道しるべを立てていてくれるけれど、僕がその道しるべに気づかなかったらダメ。
その時その時導かれたが、ここに至ればその人たちは絶対者ではない。
面と向かえば尊敬の念を抱くが、ふり返れば尊敬する人、というのはいない。
お釈迦さまも、ここに至ったら、お釈迦さまの欠落しているところが見えてくる。
過去の人を超えないとダメ。
過去の人を超えることができる。
過去の歴史をもらって、さらに成長できる。
耕さないことはそういうこと。
過去の人にすがってはダメ。


・芸術性と人間性は切り離すことができない。
芸術性がどれだけ育まれているかということは、どれだけ豊かに生きられるかということ。
私の一日の生活の仕方が芸術的。生活そのものが芸術。
芸術においては、美醜の問題を明らかにする。
醜悪なものをつくることは、環境を汚すこと。
私達は美を得て初めて魂が救われる。本当の喜びを得られる。
審美眼を養わないといけない。
作品はその人の魂。見た人も救われる。


・「私を生きる決心、勇気。僕は決断できない、勇気がないのですが・・・」
与えられている生の期間が、これだけしかないとわかったら、私を生きないともったいないという思いが強かった。
明確になっていないと、その能力がない。
見えたら、自らそちらのほうへ行く。
周囲の人が足を引っ張る場合は、心配だから足を引っ張る。いくら説明しても足を引っ張る。
その理が通じたとしても、私の中に不安感があれば、足を引っ張る。
私の不安に対して不安になる。その道に対してではなくて。
踏み出したとしてもそういう気持ちは、折々湧き起る。

・「落ちている中で力がつく」
崖っぷちに立たされることが多い今日。
自然農に切り換えて、失敗を繰り返している。
崖っぷちと思っている所から落ちてしまう。
何度も落ちてきた。
約束されている中で、これを解決できないと落ちる、と思ったが、落ちてきた。
ふり返って思うと、落ちなかったら、この成長はなかった。
私は私を生きるというところに立てる能力は落ちた時に養われた。
それなりのけがをするが、さらに約束される。
確かなところに落ちる。
前と同じ所には落ちない。さらに確かな所に落ちる。
私を全うできる基本の能力は落ちている時に養われる。
不安は常についてくる。
でもそれ以上に、こちらに踏み出したい、こちらから離れたくない、耕耘機はもう使いたくない、それが明確になっている。
不安になる材料は限りなくある。
それは私を不安に陥れるものがあるからではなく、私が不安なだけ。
不安の材料は尽きない。
不安にならない私にならなければならない。
でも落ちないほうがいい。落ちたら成長できるかといえば、必ずしもそうではない。

・皆さんにその道筋を見せるのは、時間が要る。
又、受け取る側がキャッチできなければ伝えられない。
その道筋はある。全ては正しい答えがある。
すべての人に通じる答えがある。
その鍵を早く手にできるように成長する。そこで道筋が明らかになる。


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