安曇野便り NO.9 (2000年12月)
      大人からの真摯な問いかけ
                   長野県南安曇郡堀金村  稲角 尚子

まるで、絵本のページをめくったら“冬”という感じの今日この頃。アルプスの
山並みはすっかり雪景色。日に日に空気が冷たくキリッと引き締まっていく冬の
安曇野です。最低気温が零下5〜6度、最高気温が2〜3度なんて日も出てきました
が、暖房がしっかりしてるから大丈夫。家にはF.F.ストーブという排気のできる
大型のストーブ(燃料は灯油。エアコンは役にたちません)がついていて臭いに
悩まされずに暖をとることができます。朝起きる前にタイマーをセットしておく
ので、「冷え切った台所で朝食の用意」なんてこともありません。寒さの厳しい
ところにもかかわらず、生活する困難さを感じずに済むのは有り難いことです。
「冬の安曇野もいいもんだよ〜」なんてお気楽に言えるのは、何と言っても強力
に暖めてくれる暖房のおかげです。
12月に入ってすぐの日曜日。大家さんに教わりながら家族全員で畑の野沢菜を漬
けました。沢の水で一株ずつ丁寧に泥を落としながら洗う作業が(水が冷たいの
で)最も大変です。漬けた野沢菜は40・。これに4%の粗塩(1.6・)とザラメ1・
、醤油(3合)、米酢(4合)を振り入れながら樽に詰めていきます。重石を載せ
て1日置いたらもう水が上がっていて、緑鮮やかな浅漬けを楽しむことができます
。1〜2週もしたら香りもよくなって、すっかりアノ野沢菜になってきました。家
々によって昆布とか煮干し、大豆や唐辛子などを入れて「わが家の味」を作ると
いう野沢菜ですが、最近では「野沢菜の素」という袋詰めの調味料を使う人も多
いようです。不思議なもので「○○の素」なんていうのが売られていると、それ
を使わないと美味くないように感じるものなのかもしれません。でも、ホントに
そうなのか?たくあんを漬けるのにも、干したナスの葉や柿の皮を入れたり・・
そんな(時には科学的にははっきりしない)「知恵」を大事にしたい。食卓で「
これは栄養になるから食べなさい」と言うんじゃなくて「柚子の香りがいいねぇ
」と語り合いたい。
子どもを育てる時にも、知らず知らずに「○○の素」みたいなお手軽調味料を必
需品と思い込まされていないかどうか。コマーシャルとか噂に惑わされずに考え
たいと思います。

野沢菜を漬け込んだ後「少し暖まっていきましょ」と大家さんが誘ってくれまし
た。こうやって何だかんだとしょっちゅうお邪魔しているのですが、その度に大
家さんの家の薪ストーブに魅せられます。薪ストーブの暖かさは何かこう・・や
わらかい。空気がほんわかとしてきて、身も心もほぐされていくような気がしま
す。(大家さんの家の軒端には薪が山と積まれています。これを山から切り出し
、長さを揃えて積み上げるその労力たるや!生活のための労働がここにもありま
す。)パチパチと薪のはぜる音を聞きながら、大家さんのお祖父さんが日露戦争
(!)で二百三高地に行った時の話などに耳を傾けます。大家さん自身が子ども
の頃、囲炉裏でお祖父さんから繰り返し聞いたであろうその話を、今こうしてう
ちの3人の子どもたちがみかんやスルメや漬け物を食べながら聞いているというの
も不思議なものです。夏に河原に遊びに行っても枯れ枝を集めて焚き火をするの
が一番おもしろいというまん中の子(小6)は、当然のように薪をくべる係になっ
ています。その薪ストーブの周りで「私が14、5歳の頃、穴を掘って杭を打ち付け
ておくれと母に頼まれたのに、その時なぜか私はそれをやらなくてねぇ。あの時
の母の悲しそうな顔を今頃になって思い出すんですよ。たいしたことじゃないの
に、どうしてやってあげなかったのかってね」と話す大家さんの目が少し潤んで
いたりします。そんな話を、遅ればせながら反抗期にさしかかっている上の子(
中3)も黙って聞いています。
燃える火のまわりで聞く年長者のこんな話は、静かに心に沁み入ってくるみたい 。

いろいろな行事が続いた2学期が、ようやく終盤を迎えようとしています。そのひ
とつひとつを私はかなりじっくり見せてもらいました。そうして感じたのが「や
らされる」のではなく、それこそ一生懸命に取り組む子どもたちの姿でした。た
とえば、香川でもあった運動会や音楽会。香川では保護者や来賓の手前いいもの
を見せなければ、というプレッシャーで必死になっている先生たちと、それに反
比例するかのように(みんながみんなではないけれど)シラケてテキトーにやろ
うとする子どもたちがどうしても見えてきて暗い気持ちになったものです。だか
ら、小学校の高学年や中学生にもなると、なかなか大きな口を開けて歌おうとは
しない子が多いもの、と私も思い込んでいましたが、ここの子どもたちは違う。
何故か?もちろん、都市化という意味ではずいぶん遅れている地域ですし、そう
いったシラケの文化(?)の流入が小さいということもあります。素朴な子ども
たちですから、そこに押しつけではない教師の働きかけがあれば、素直に応えて
くれるのかもしれません。でも、何よりそういった子どもたちを心から認め賞賛
する大人たちの存在も大きいのではないかと感じます。子どもたちもお互いをホ
ント認め合う。
合唱部がメチャうまいから絶対聞いてよ!と小6の息子がいつも言うので楽しみに
していましたが、音楽会で演奏を聴いてビックリ。指揮者の先生を信じて「心を
ひとつにして」それこそ一生懸命歌っているのが伝わってきます。東日本大会で
優秀賞をとったのも頷ける。「ねっ。スゴイやろ。うまかったやろ」と合唱部で
はない息子が何回も自慢するのもおもしろいもんやなと思います。その息子が11
月下旬にあった持久走大会を風邪で欠席した日のこと。妹(小3)もその日咳をし
ながら少々無理をして持久走大会に出たので心配して迎えに行ったら、私の姿を
見た6年生がウワーッと集まってきて「あっ、ノブ大丈夫?」「きょう惜しかった
なぁ。ノブが来たら優勝できたかもしれんのに」「ホント残念だったなぁー、ノ
ブ」「出られなくて悔しかったろうなぁ」「練習の時、アキフミとのデッドヒー
トがすごかったんで」「絶対、今日はノブが一位になると思ったのに残念だった
なぁ」などなど口々に言い、「早く治って学校に来るように言っといて」と手を
振って散っていきました。あ〜ここの子ってお互いのいいところをこんなに素直
に褒め合うんだとホロリとさせられます。
子どもは誰でも(大人だって)ほめられるのが大好き。普段「競争」という雰囲
気がないところで過ごしていると、こんな雰囲気が育くまれるんですね。それが
反面ではおっとりしすぎているという欠点にもなるのだろうけれども、子どもが
育つ過程において「競争」を目の前にちらつかせ「叱咤激励」するより、おっと
りとお互いを認め合いながらニコニコしてる方が精神衛生上いいと改めて思いま
す。

では、そんな子どもたちが成長していく過程でどのようにしてモノを考えるよう
になるか?
先月、地元紙に高校教諭が「学ぶ意味伝える」論集を刊行したと掲載されていた
ので、早速ご本人から送ってもらい読んでみました。『20世紀の終わりに 教育
・歴史論集の試み』と題されたその本の著者は県立高校教諭の小川幸司(34)さ
ん。小川さんが担当している世界史を軸とした教育論、生徒と共に取り組んでき
た図書館ゼミナールの活動の様子、そして自分自身を内省しながら語りかける学
年便りの文章などから構成されているこの本。そこに見えてきたのは、「学校の
教科の勉強には向かうが、『自分から世界にむかっていく』生き方が欠けている
今の生徒たち」に淡々と、しかしねばり強く働きかけている誠実な教師の姿でし
た。世界史教育では「ごく基礎的な固有名詞のみを素材にし、世界史の大きなア
ウトラインが描けるような授業を展開する中で『歴史から何を私たちは学び得る
か』という『歴史批評』を教師も生徒も鍛えようとする」ことを、まず教師自身
が「自らを不断に磨かなくてはならない」と専門書を読んだり研究会で学び合っ
たり討論したりすることから始めておられます。そして、「学校において『学ぶ
』ことが『よりよき生き方の模索』につながるのだという大前提が急速に失われ
てきている傾向はないだろうか」という小川さんが、「『自分で主体的に学ぶこ
との充実感』を得られる場にしたい」という願いを原点として始まったという図
書館ゼミを通してやろうとしているのは、生徒に考え「させる」とか討論「させ
る」ということではなく、小川さん自身が考察したことを「対等な立場」である
生徒たちに投げかけ、そしてまた自分自身の思考を深めようとしていることにあ
ると感じます。
NO.6「何になりたいかを問う進路指導」の中で、テーマの設定から講師との交渉
、すべて生徒たちで企画運営しているこの図書館ゼミについて、「高校生だもの
、やれるんだよね」と書きました。でもこの本を読めば、何もないところで高校
生が自発的にやれるようになるのではなく、身近な大人が考えを投げかけ、共に
学ぼうとしているからこそやれるんだということがよくわかります。松本サリン
事件の第一通報者の河野義行さんを講師に迎えて、「報道被害や冤罪の問題ばか
りではなくオウム信者の人権をも考える」河野さんの話に耳を傾けたり、「日の
丸・君が代」を通じて「国家」とか「公共」というものを考えるような連続ゼミ
に取り組み、その締めくくりとして永六輔さんの講演会を企画したりした生徒た
ち。そこには、生徒の依頼に応じて「日の丸・君が代」の問題についてもタブー
視せずに、エッセイを書いたり討論会に参加して自分の考えを生徒に問いかけて
くれる校長を始めとする教師たちがいます。映画「ショアー」を上演する時には
、事前学習として「人類におけるアウシュヴィッツの意味を考える」講義をした
小川さんのような教師がいるわけです。
「今の学校での学びが『魅力のないゲーム』になっている」という小川さんは、
教師の学びを回復すること、そして授業の改善を提唱していますが、生徒たちと
対等に議論し学ぼうとするその姿勢をこそ同じ大人としてまず私は学びたい。

9月下旬に地元紙の報道で知った、来年度開校する穂高東・穂高西中学校が新入生
の制服を特に定めないというニュース。うわぁ、ここにもそんなうねりがあるの
かぁと感動していたら、すぐに穂高の小学校PTAの地区役員らから「制服着用を求
める陳情書」が出たというので驚きました。やっぱりどこでも「華美になる」と
か「いじめが心配」とかの声が出てくるものなんですね。でも、2週間ほどして町
教委が回答書を手渡した(ちゃんと回答書が出るから感心するよね)という報道
によると、町教委は「制服も新しい学校づくりの一環」「制服は新中学校開校後
に学校・PTA・生徒会で検討する事項」「押しつけるのではなく、多様性や自主性
を認めていきたい」と主張しているとのこと。思わずいいぞ〜!と拍手したくな
りました。今まであったものをなくすというのは勇気がいります。考えるのが面
倒とか手続きを考えただけで憂鬱とかいう理由で「今まで通りでいいや」という
ことになりがちなのが人の常。だからこそ、いったんチャラにして「本当に必要
か」と考えることには意味があると思うのです。「生徒を交えてそれぞれの学校
で検討してほしい」という町教委。ここにもモノを考える子どもを育てようとす
る大人の存在を感じます。

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