画僧 上野玄春 紹介

1995.7.1 月刊長野県レビュー

信州大好き       さとうふみこ の<この人訪問>

作品は「キャンバスに移植された作家の眼そのもの」と主張する眼はやさしい芸術家の眼のようでもあり、人を見透す宗教家の眼でもある。
それは相対する人間にまかせられているかもしれない。

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とにかく自然の美しさを求めて来たところが梓川村だった、それまでは埼玉県の浦和市に住んでいたのだが、上野玄春さんはもっと住みたいところはないものだろうかと、あちこちのルートを頼りに探したのだった。「ヨーガをやっていると、〃地水火風空”を基準に生活しますから、なかなか見つからなかったですね。でも、ひょんなことからこの梓川村の花見(けみ)が見つかって、近くには山あり、谷あり、畑あり、そして何よりも川があるでしょ。小さい頃から川のそばに住みたいと思っていましたから、嬉しいですね」

上野玄春さんは大学卒業後、美術の教師をしていたのだが、「自分とは何だろう、芸術作品をつくるには自分の人生を芸術化することではないか」というテーマにぷつかった。そのテーマが脳裏をかけめぐるようになってから、ダリの絵画作品やフロイド主義に興味を持ち、人間の心理的な思想やシュールレアリズム(超現実主義)に関心は広がっていった。「友人達と議論もよくやりました。それも徹夜ですね。時には詩を作り詩集にして、池袋で百五十円で立ち売りしたこともあります。そのうちに精神のバランスがくずれ、不眠症になり、カナシバリのような状態になってしまったこともあります」その時だった。自然に出てきたことばが「南無阿弥陀仏」。すると身体が不思議にやすらいだ。「そんなはずは無い……」それから上野さんは、その根源を調べてみようと思った、そして一冊の本に出会う、司馬遼太郎著『空海の風景』というものである。念仏とは、真言とは、密教とは、キリスト教とは・・宗教に関心を寄せるようになり、教員生活をやめて寝袋一つ持ってインドへ。
「生きた宗教があるはずだ」を、信じて・・・・・。


「インドでは人間の自然性を学びました。つまり人は自然に育てられ、自然に戻っていく。その課程に人生の芸術もある。自然は正反対の性質が向かいあっています。そのバランスをとろうとするのが、宇宙の何かなのです」わかりやすく言えば、火と水、電極のプラスとマイナス。男と女のように相対するものがあるということ。火は上に燃え上がろうとし、水は下に流れようとする。その自然の法則を伝える人が聖(日知り)であるという。それは、思想家であったり、キリストであったり仏陀である。「百人いれば百の宗教があってもいいと思いますね“宗教の良い所は、生きる自信を持たせてくれること。ただ、それぞれ自分の宗教が一番良いと思うところに間題はあります。そして人に押しつけるんですね。宗教は人の数だけあってもいいと思っているんですが」と上野さんの宗教観。

インドから帰国後は、飯島貫実師と共にヨーガ道を広め、やがて身延山信行道場で修養、その縁で日蓮宗の僧籍を得ることとなった。「ヨーガは、最初は自分の存在を掴むことから始まりました。断食をし、陰陽の法則を知り、修業を続けていた頃、病気の父親があと一週間の命と宣告されたのです。それで、自分が学んだことを試してみたところ、みるまに黄疸が消えて元気になったのです。実験台になってくれた父に感謝しています」それは上野さんの自信にもつながり、人にこれを伝えよう、広めようの決心にもつながった。1988年インドの古典舞踏家の夫人と共にヨーガの会「恒河舎」を創設。もちろん本業は、日本画家。さまざまな時間と環境の流れの中で、心の内面は自然に向かい、身体はヨーガに向かう画僧となった。

上野さんの描く日本画は、とてつもなく明かるい。熱帯地方の植物が繁茂している中でインド舞踊の女性がポーズをとっている絵はまさに上野さんの生命そのもの。「文化というのは、遠い所からタネが飛んで来て根付くもの。その土地、で咲く花ばかりでは発展しません。新しい種類と混じり合って豊かな花々を咲かせることが、ほんとの文化ではないでしょうか」上野さんの家には囲炉裏があり、幻想的な音楽も流れている。大好きな川のそぱで野菜も作っている。

「この村ととけ合って、無理をしないで生きていきたいですね。おかげさまで知り合いも増えました。信州の方達は皆親切です。そして、寺小屋風な生き方ができれば最高です」上野さんの眼がやさしい光を放った。
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