舎爐夢ヒュッテの日記とGUESTのページ 

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 2月23日 曇り すっかり暖かくなってきました。気温10度

2月撮りだめた画像があったので一気にアップです。

幼稚園の設立準備が進んでいます。自主保育ということで3月から本格的な幼稚園が始まります。入園説明会や体験保育を実施しています。入園予定者は12名になりました。お母さんパワーにびっくりしています。

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設立準備の打ち合わせです。熱気が伝わってきます。

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ヤナバスキー場に出かけたときのすなっぷです。天気に恵まれ気持ちの良い1日でした。愛美は2回目のスキーでスキーの楽しさがわかったみたいです。リフトにも何度か乗ってプルークでどこでも滑れるようです。

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朝のヨーガ 運動不足なのでヨーガをやっています。

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家の周りでもスキーが楽しめます。愛美はすっかりスキーにはまっています。

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毎月送られてくるおおえさんの文章を記載します。
             http://www.d2.dion.ne.jp//ichienso/ 

八ヶ岳日誌2002年2月号            おおえまさのり

<中道――ジョージ・ブッシュから遠く>

 人類というものの愚かさを見せつけられる日々がつづいている。アメリカはアフガ
ニスタンからさらにフィリッピン、イラク、イラン、ソマリア、北朝鮮などへと戦域
を拡大しつつある。
 ジョージ・ブッシュの2002年年頭の一般教書は「アメリカは今戦時下にある」
という言文ではじまり、世界最大のテロ国家アメリカ(ノーム・チョムスキー『9・
11』)の、戦争宣言書となっている。世界(アメリカが認めない世界)を滅び尽く
すまで戦うと。
 アメリカは狂ってしまったか、アメリカは死んだかと思わせられる。「自由失う
『自由の国』」(朝日新聞「アメリカ・アメリカ」取材班)「理性の声聞かぬアメリ
カ」(ジョン・ダワー)という言葉が聞かれるが、アメリカではどうなのであろう
か。どう受け取られているのだろうか。
 アメリカは滅ぼされる側に立って考えたことはあるのだろうか。ネイティブ・アメ
リカンの側に立って、ベトナムの、パレスチナの、アフガニスタンの側に立って。そ
うあるとはとても思われない。
 滅ぼされる側の人々の声の中には、ネイティブ・アメリカンの、ベトナムの、パレ
スチナの、アフガニスタンの、あるいはまた中国によって滅ぼされつつあるチベット
の、それらの民の声の中には、敵味方、体制反体制を超えて、わたしたちのスピリッ
ト(精神や霊性)に働きかけてくる多くのものがある。アメリカ東北部に住むネイ
ティブ・アメリカンのシックス・ネイション(六ヶ国連合)には、アーノルド・ミン
デル(『紛争の心理学』)の提唱する深層民主主義が息づいているのを見ることがで
きる。一児の赤子の中にさえ、ジョージ・ブッシュにない、それがある――すべてを
超えたいのちの輝きがある、すべての人を救済する笑みがある。人は赤子によって救
われることができる。日々鬼化してゆくジョージ・ブッシュによってではない。

 だが、鬼もまた神となるから、やっかいである。
 「夕陽妄語」(朝日新聞)で加藤周一が書いていた、「神はどこにいるのか」と。
 ベルトルト・ブレヒトの『ガリレイの生涯』にこうある。

 友人(サグレード)「そして神は?神はどこにいるのだ?」
 ガリレイ「われわれのなかに。もしそうでなければ、どこにもいない!」

 この言辞を紹介した後、9・11の同時多発テロ事件に象徴的に現れてきた神をめ
ぐる革命状況を踏まえつつ、彼はこう結んでいる。

 諸家の議論を見わたしたところ、少なくともその大部分は、今もガリレイの「われ
われの中に」=不可知論を大きく超えていないようである。世界を知るためには科
学、世界を変えるためには信仰なのかもしれない……。

 ガリレイの言説、「われわれのなかに。もしそうでなければ、どこにもいない!」
は、「神はわたしたちの心理的事象にすぎない」ということではない。神は「われわ
れのなかにいる」ということである。神を感得するわたしがいて、その故に神はいる
のである、不可知論ではなく、確たるものとして。それがリアリティの本質である。
リアリティは関与者との関係の中に現れ出てくるものでしかないからである。
 
 人は神を見て生きている存在であり、生きてゆくために神を必要としている。
 鬼もまた神である。鬼神である。

 そして鬼神もまた「われわれのなかに」である。ジョージ・ブッシュのそれのよう
に。
 「われわれのなかに」いる以外に、いる場所はない、神もまた。

 今わたしたちの見るべきは、神の実在ではなく、神の実相である。
 実在としての神はエホバであり、父なる神であり、アッラーあり、仏陀あり……と
なる。
 そしてその実在を巡って、互いに血で血を洗いながら、争い合うことになる。

 だがその実相となれば、アブラハムの、キリストの、ムハンマドの、それぞれの見
ているものは共に、唯一の「一」の神である。「一」のそこには、見られる客体も見
る主体も存在しえない。神もわたしもいない。いることなど適わない。神の実相と
は、神もわたしもない非実体的な「一」である。(イブンアラビー「存在一性論」)
 仏陀のそこにあるものもまた、神や存在の「実体の空(非実体性、縁起性、関係生
起性)」である。

 仏教ではそうした存在の見方を、「中観」、「中論」あるいは「中道」として見て
きた。「神やこの存在世界の本性はいかなる実体もなく、空である」という認知であ
り、その論、その道である。

 1959年、中国によってチベットを追われたダライ・ラマ14世は、中道という
ところから、世界に向かって、己を超えて、呼びかけようとしている。
 中道とは、仏教において、二つのものの対立を離れていること、断(そうでない)
と常(そうである)という見方、有と無という見方を離れていることであり、また存
在の空(非実体性)を論じた『中論』(ナーガルジュナ)においては、存在の空性
性、縁起性(関係生起性)、仮名性(非実体性)をいう。

 2001年10月24日、欧州議会で行われたダライ・ラマ14世のスピーチを見
てみよう。


 人間社会が歴史上重大な危機に瀕していることは明らかであります。今日の世界に
おいて、人間性は一つであると認める必要があります。
 過去においては、地域社会はお互いを基本的に別々のものだと考えることができま
した。しかし現在は、アメリカで最近起こった悲劇的な出来事から分かるように、あ
る地域で起こる出来事は何であろうと他の多くの地域に次第に影響を与えて行きま
す。
 世界はますます相互依存するようになってきています。この新しい相互依存という
意味では、自己の利益は他人の利益を考えることにあるのは明らかです。普遍的な責
任という感覚を養い育てていかなければ、我々の近い将来は危ぶまれます。
 我々の前に新たに出現した地球的規模の共同体という意味において、戦争を含むあ
らゆる形態の暴力は紛争解決の手段としては全く不適当なのです。暴力と戦争は常に
人間の歴史の一部であり、かつては勝者も敗者もいました。
 しかし、現在もし新たに地球的規模で衝突が起こったとすれば、勝者は全く存在し
ないでしょう。それゆえに我々は世界に対し、長期的に見て核兵器や国軍のない世界
を求める勇気とビジョンを持つべきです。
 特にアメリカ合衆国での恐ろしい攻撃に照らして考えれば、国際社会は誠実に努力
しその恐ろしいショッキングな経験を生かして、地球的規模の責任感―つまり対話の
文化と非暴力を紛争解決に使用する―そこへ発展させるべきなのです。

 私はチベット解放という闘いを非暴力という道に導き、そして和解と妥協の精神で
中国と交渉をしながら、双方に好ましいチベット問題の解決方法に一貫して狙いを定
めてきました。
 この精神を持って、1988年ストラスブールで開催されたこの同じ議会で、私は交渉
――つまり我々がチベット問題解決の基礎として貢献することを望んでいるもの――
を公に提案しました。
 交渉の枠組みに対する私の考えを披露する機会として欧州議会を私が慎重に選んだ
のは、本当の連合とは全ての関係者が満足の行く利益を得た時に自然と発生するもの
だという点を強調するためです。欧州連合はこの点において明らかに勇気を与えてく
れる例です。
 一方で、信頼や利益が欠けている場合、そして統治の主要な手段として力が用いら
れる場合は、どんな国や地域社会も2つあるいはそれ以上の存在に分かれてしまう可
能性があります。

 後に「中道的アプローチ(Middle Way Approach)」または「ストラスブール提案」
として知られるようになった私の提案は、チベットが中華人民共和国の枠組みの中で
真の自治を享受することを描いています。
 それは、十七ヵ条協定で50年前に私たちに強いられた紙上の自治ではなく、自分の
子供たちの教育や宗教に関すること、文化面の諸事、チベットの繊細で貴重な環境の
保護、地方経済を含む自分たちの国内問題についてチベット人が完全に責任をもつこ
とのできる本当の自治、真に自治権のあるチベットです。中国政府は外交と防衛面で
の管理を担い続けます。
 この解決策は、中国の国際イメージを大いに高め、中国政府の二つの最優先課題で
ある安定と統一に貢献するのと同時に、チベット人にとっては、基本的人権と自分た
ちの文明を守りチベット高原の繊細な環境を保護する自由を保障するものとなるで
しょう。

 私たちの自由闘争の手段として暴力を行使することを私は断固として拒否する一
方、私たちには確かにあらゆる政治的選択を探求する権利があります。私は自由と民
主主義の堅固な信奉者ですから、亡命中のチベット人たちに民主主義的手順を辿るよ
うに奨励してきました。
 今日、チベット難民たちは、民主主義の3本柱である立法・司法・行政のすべて確
立した数少ない亡命コミュニティーのひとつかもしれません。今年、私たちはチベッ
ト議会の主席大臣を民衆による投票で選出し、民主主義化への過程で新たな長足の進
歩を遂げました。選挙によって選出された主席大臣と、選挙によって選ばれた議会
は、人々の合法的代表者としてチベットの諸事を運営する責任を担うことになるで
しょう。
 しかしながら、解決策が見つかるまで、中国指導部にチベット問題を持ちかけ続け
ることと、チベットの人々の自由なスポークスマンとして行動することが、私の600
万人のチベット人に対する道義的責任であると考えています。

 何年にもわたる私の提案に対し中国政府から何の積極的な反応がないために、国際
社会のメンバーに訴える以外に私には選択肢が残されておりません。首尾一貫した協
調的な一層の国際努力のみが、北京にチベットに対する政策を変えるよう説得できる
でしょう。
 中国からの最初の反応は否定的なものである可能性が高いですが、国際的関心と支
持の表明は、チベット問題の平和的解決を助ける環境づくりに不可欠であると強く信
じています。
 私のほうは、対話という方法を固守し続けています。対話そしてチベットの現実を
誠意と明晰さをもって見つめる意志は、中華人民共和国の安定と統一に貢献し、かつ
チベット人が自由・平和・尊厳のなかで生きていく権利を保障する、双方にとって有
益な解決策へと私たちを導いてくれると私は固く信じております。

 チベット内の状況を見ると、ますます強化される弾圧、引き続く環境破壊、そして
まさに今行われているチベットの文化とアイデンティティーの組織的破壊に直面し、
ほとんど絶望的なように思われます。
 しかし、私は中国にいかに大きな権力があったとしても、中国はそれでも世界の一
部だと信じています。今日の世界の流れは、開放、自由、民主主義、人権の尊重へと
向かっています。
 遅かれ早かれ、中国もその世界の流れに従わなくてはならないでしょうし、長期的
には、中国が真実・正義・自由から逃れ得ることは決してないでしょう。欧州議会が
一貫し道義に基づいた方法で中国と関わりをもつことは、中国ですでに起こっている
変化の過程を促進することになるでしょう。チベット問題は中国で起きていることと
密接な繋がりがあるので、希望ももつ理由と根拠があると信じています。


 わたしたちはこの中道的アプローチの問題を、ジョージ・ブッシュの一般教書に比
して、考えみる必要がある。
 それはチベットと中国双方の、いや国際社会にとっての、人類と世界の止揚を夢見
るものであり、その実現へのステップを記すものであるといえよう。チベットを追わ
れて40年、その果てに、憎しみへとではなく、敵見方の見解を超えたところに至
り、そこからチベットと中国に、人類と世界に語りかけ、人類の自覚に基づく、真に
民主的な中道の道において、世界を救いとろうと努めている。

 暴力の連鎖の愚かさを見るにつけ、わたしたちは第一次、第二次世界大戦から、何
も学んでこなかったのであろうか。人類は歴史から学ぶことはできないのだろうか。
核や環境問題から人類は何を学んできたのだろうか。あるいは神から。

 わたしたちは、ジョージ・ブッシュのいう「敵か味方か」という愚かな二元論に陥
らない、ダライ・ラマの提唱するところの「中道」とういものの見方を、深く再考察
してみる必要がある。
 それ(中道)は、今日の地球環境の問題が提起してきた、他のものによってわたし
が支えられているという「関係生起(縁起)」性を透徹する。個は他によって支えら
れ(存在を与えられ)、かつそれぞれの個は互いに全世界を宿し合っている、と。そ
して世界(存在)が関係生起であるのは、そうありうるのは、それぞれの存在が究極
的な「永遠不滅の実体」を持っていないからである、という。神のところで見たよう
に、世界(神やこの存在世界)に永遠不滅の実体はないという見解である。
 それはまた、世界は関係であるからには、世界には究極的な実体なく、世界はこう
であるという「常見」とそうではないとう「断見」を超えているという見解でもあ
る。世界はわたしたちがどこに立っているかという、それぞれの関わっている場に
よって、異なる見え方をする。敵も味方も人がどこに立つかによって、異なってく
る。関わりの中でリアリティは現れてくる他ないからである。たとえば時間。時間は
その人がどこに立っているかによって、異なったものとして体験される。極端な話、
光速で移動するものには時間も空間も質量も存在しないものとして体験される。その
それぞれの時間が正しく、時間は有るといっても、無いといっても正しい。ブッシュ
のいう「あれかこれか」ではなく、あれでもこれでもあり、あれでもこれでもない。

 ではリアリティ(真実)はなにもないのかというと、そうではない。リアリティは
関係の中にあるということである。関係がリアリティであると。
 神もまた関係の中に、ガリレイがいうように、わたしの中にということになる。わ
たしなくして神は存在しない。わたしとの関係の中で神は確として存在する。それぞ
れのわたしの中にそれぞれの(多様な)神があり、かつそれは「一」なのである。そ
してそれは「一」の故に、非実体的なリアリティのものなのである。
 世界もまたそうしたものとして現れている。関係というリアリティをわたしたちは
生きている。生きていること自体が関係である。関係を生きているわたしがいるとい
うことである。
 その関係を断ち切ろうとうするのが、ブッシュの二元論的立場である。あれかこれ
か、敵か味方かであり、これでないものは殲滅させられる。
 中道は関係を生きようとする。関係が存在に他ならないからだ。
 そして関係が世界であることは、哲学や認識論のみならず、環境問題の中から、人
類は多くを学んできたはずである。関係を断ち切れば、自ら共々、世界は滅びると。
ひとり勝ちはあり得ない。


2月4日晴れ6度

仁君とヤナバにボードをやりに出かけました。道には雪はなくスキー場まではスムーズです。

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