第1章 ヨーガとは何か

□ヨーガの意味と起源

 ヨーガの起源をたどりますと、紀元前二千五百年程のインダス河流域のハラッパやモヘンジョダロなどの遺跡から、ヨーガの坐像の印形が出土していることから、その頃を起源としているようですが、実際に「ヨーガ」という言葉が宗教的用語として確認されているのは紀元前五百年前後のベーダンタの時代で「ヨーガ」とは「馬を車体につなぎ、その馬車をコントロールして、道をはずさず、人生の目的地へ行くこと」を意味していたのです。

 カタ・ウパニシャッドでは 「真我(アートマン)を車主、肉体を車体、理性を御者、意 志を手綱と心得よ。賢者たち はもろもろの感覚器官を馬と 呼び、感覚の対象を道と呼ん でいる」と述べています。こ のことから「ヨーガ」とは、馬を車に「つなぐ」(yuj) が語源であり、意味するとこ ろは「結ぶ」「コントロールを する」「バランスをとる」との 意味をもってきました。

 又、少し遅れた同時代には釈迦族のゴータマ・シッタルダが悟りを開き、仏教がスタートしています。このお釈迦様も二十九歳の時、王宮から出家して山野で六年間修行された後、ブッダガヤで瞑想し、悟りを開かれたのですが、その間、瞑想をしたり、断食をしたり、野山で遊行した修行が、まさに当時のヨーガそのものであったのです。ですから、その生きたお釈迦様(ブッダ)の実際に語った言葉を、後に弟子が書き残したと云われる「ダンマパダ(法句経)」の中にも、このように「ヨーガ」という言葉が語られています。

 「まさに智はヨーガより生じ、ヨーガなくして智は滅ぶ。その道理を知りて、ヨーガを行じ、智を増大せしめよ。」(20章282)

 「智」というのは、物事を分析するだけの知識(分別知)ではなく、知に日がついて光あふれた、命の智恵「英知」と云われています。それを人々に伝える人を、かつて、日知り「聖人」と云ったのです。

 このように、「ヨーガ」とは、「結びつける」「コントロールをする」「バランスをとる」という意味と、その「修行法」「技法」として発達してきたのです。 それでは何と何とを「結びつけ」「バランスをとる」のでしょうか?

 それは、@身体と心をバランスよく結びつける。A内なる私(真我)と大いなる我(宇宙)とを結びつける。B人と人をバランスよく結びつけることなのです。仏教では、それを三宝と云って、@身体と心をバランスよく結びつけ解放した人間存在を「仏(ブッダ)」といいA宇宙や自然の法則と自己とを調和させる生き方を「法(ダルマ)」といい、B人と人とが調和し助け合う平和な社会を「僧(サンガ)」といって尊んだのです。

 そしてヨーガでは、その方法を、具体的な生活法(ヤマ・ニヤマ)、運動法(アーサナ)、呼吸法(プラーナヤーマ)、瞑想法の階梯(プラティヤハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ)そして祈りの言葉・神の名(マントラ、ジャバ)等として、私達に伝えてきているのです。  

□命の根本思想

 このように「ヨーガ」とは、「結びつける」「コントロールスル」「バランスをとる」その「方法」を意味しました。そこで今、自分自身や、私達を取り巻く自然界や社会を見てみますと、あらゆるものが二つの相対する性質や極をもって成立していることに気付きます。例えば、天と地、昼と夜、男と女、プラスとマイナス、吸うと吐く、右脳と左脳、緊張と弛緩、生と死、交感神経と副交感神経、苦と楽、求心力と遠心力、等々です。

これらの両極を古代の中国の思想では「陰と陽」と名示して、それらの根源を「太極」と 呼び、バランスをとり、 変化している様相を「 易」と呼び、それらが 宇宙の法則として自ら なることを「道(タオ) 」と呼びました。です からこれも「ヨーガ」 と同じ意味をもってい ることがわかります。

 又、日本では、男は日の子(彦)、女は日の女(姫)が結ばれることを結婚といい、日止(人)が生まれます。ですから「結び」は「産霊(むすび)」であり、天の御中主の命(太極)から、高産霊(陰)と神産霊(陽)が現れます。その後、男女の両神「いざなぎ(男神)」と「いざなみ(女神)」があらわれ、神話が展開されていきます。また、命の源であるご飯を右の手(陽)と、左の手(陰)で握ったものを「おむすび」と言います。日本では「結ぶ」ということを命のキーワードとして用いてきたのです。

 キリスト教の教えの中にも次のような記述が見られます。1945年頃ナイル河上域で発見されたコプト語で書かれた「トマスによる福音書」によりますと、イエスは弟子たちに「神の国はいつ来るのか?」と聞かれて「神の国は見られる形で来るものではない。実にあなた方のただ中にあるのだ。もし人が『あなた自身の神のあかしは何ですか?』と尋ねたら『それは動きと静止です』と答えなさい。」と云っています。さらにイエスは「あなた方が、二つのものを一つに、内を外に、上を下に、男と女を一体にして、男を男でなく、女を女でなくするとき、目の変わりに目を、手のかわりに手を、像のかわりに像を作るとき、神の国に入ることができる。」と書かれています。

 このように、ヒンズー教・仏教・道教・神道・キリスト教の中においても、根本的に「陰と陽をバランスよく結びつける=ヨーガ」という思想が<命の根本の思想>となっていることが理解されます。

 このように「ヨーガ」とは、陰・陽両極にあるもののバランスをとることなのですが、そこには天秤における0(ゼロ)の支点のようなポイントがなければ、その働きが生まれません。その0ポイント=ニュートラルな状態を、身体的にも心の動きの上でも生み出す技法を、ヨーガでは大変重要なことと考えているのです。ヨーガの根本経典であると云われるヨーガスートラにおいては、「ヨーガとは思い計らいの心を止滅させることであり、思い計らいの心が止滅すれば、観る者たる真我はその本性にとどまる」と冒頭に述べている。この真の我たる本性の現われる状態、自然なる働きが湧き出すその自由自在の支点を、仏教では「空(くう)」と呼び、ヨーガでは「サマーディー=三昧=歓喜に満ちた梵我一如の状態=サット・チッタ・アーナンダ」といい、これが私達の<宇宙と繋がった私達の命の本体>であり、この本性を中心として私達の存在が成立していることを実感し、体験することこそヨーガの目的であり、様々な行法でもあるのです。この自分自身が偉大なる宇宙の法則の中で生かされ、常に守られているという実感と体験は、心身の健康の上でも、社会生活の上でも大変重要な役割を果たす源泉となるのです。

    ヨーガと健康

  現代の社会では、利便性を追求した結果、高度に発達した技術や情報に囲まれ、又、利潤追求や効率化によって競争原理の中で、一人一人が孤立化し、文明の利器によって身体運動も減り、人工的環境や、マニュアル化した日常生活の中で、その対極にある自然性・総合性・協調性・感性等のバランスを失い、そのことによって、種々のストレスを生み、肉体的、精神的な不調が、病気という形で表れてきます。ちょうど、お風呂のお湯が次第に熱くなって、そのまま入っていると、やけどをしてしまうような状態になってきているのです。即ち、環境と私達生体のバランスを保つ自律神経や液体神経(ホルモン)が臨界点に達そうとしているのです。

 芸術やスポーツや遊びなどは、これらのバランスを保つ重要な役割を人類に与えてきたのですが、現代では時としてこれらは消費社会の中に組み込まれ、一部の人のものになったり、又、競争原理によって逆にストレスの原因になってしまい、健康を害すことにもなります。そこで私達は、伝統的的ヨーガの思想が、人間という存在の構造をどのように捉えて来たかを見てみましょう。 

五つの鞘(パンチャ・コーシャ)説

 健康を考える上でも重要なことですが、ヨーガの思想の源・ウパニシャッドにおいて、人間という存在の構造は五層の体(五つの鞘)をもっていると考えています。まず一番外側は 食物鞘(アンナマヤ・コーシャ)といって、いつも薪を燃やして火をおこしているように、食べ物で維持されている私達の肉体の層です。次にその内側には A生気鞘(プラーナマヤ・コーシャ)といって生命エネルギーである「気(プラーナ)」が流れるでイメージとしての体の層です。その中に B意志鞘(マノーマヤ・コーシャ)という外界の対象に反応し、五感の情報によって左右されるコロコロと変る心(モンキー・マインド)です。その内側には C理智鞘(ヴィジナーナマヤ・コーシャ)といって、その心や記憶をコントロールする知性であり、自我といわれることもあります。そして一番奥の中心にD歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)があり、その自我を越えて無限なる宇宙とつながり、歓喜と自由と宇宙的智恵に満ちた生命そのものです。ヨーガはこれら五つの層 に対応した行法を開発してきました。食物鞘には、食養及び体位法(アーサナ)を、生気鞘には呼吸 法(プラーナヤーマ)を、意志鞘には集中法(プラ ティヤハーラとダーラナー)を理智鞘には瞑想法 (ディヤーナ)を、歓喜 鞘の実感には三昧(サマ ーディ)となり、各層の アンバランスから生まれる不自然な状態を、これらの行法によって本来、人間のもっている十全なる状態へと導いていくのです。 不思議な事にこの五重の鞘は、中心に向かうほど内容が広く感じられることから、西洋の思想家、ルドルフ・シュタイナー等による「人智学」や「神智学」では、肉体から始まって、今回の図と逆に五重の層を外側に順に描いています。まさに「あなた方が、二つのものを一つに、内を外に、上を下にする時………神の国に入ることが出来る」(マタイによる福音書)のです。  

□ヨーガの代表的な流派

ではインドにおいて古代から発達してきたヨーガにはどんな道があるのでしょう。近代の偉大なるヨーギ、ヴィヴェカナンダ師によりますと、大きく分けて ヨーガは「行為の道・カルマーヨーガ」と、「信愛の道・バクティヨーガ」とそれをつなぐ「智恵の道・ギャーナヨーガ」があるといわれております。  

いずれの道を歩むかは本人の資質や生活環境や指導者との出会い等にもよりますが、それは、山の頂上へ至る登山道のようにいずれ同じ目的地に至る道でもあり、その到達する境地を「自我を越えた神人合一状態」ともいい、「梵我一如(ブラフマン・アートマンアイキャ)」とも表わされております。

 歴史的にはその時代時代の要請により様々な流派が現われていますが、ここでは佐保田鶴治先生の分類によるヨーガの代表的な流派と特徴を見て見ましょう。

@ラージャ・ヨーガ(心理的ヨーガ)

ラージャとは王様という意味があり,総合的な行法を取り入れて心理的階梯を進み、悟りを開く伝統的ヨーガの道です。ヨーガスートラはここに位置づけられます。

Aハタ・ヨーガ(生理的)

  ハ・タとは陽と陰という意味もあり、身体を小宇宙と捉え、身体的訓練を重視し、生命  力を強め,深化させた密教的なヨーガの道です。ラージャ・ヨーガの基盤にもなります。

Bジュニャーナ・ヨーガ(哲学的)

  ジュニャーナとは智慧を意味して、「私は何者か?」という問いを中心にして、生命の智慧に至るヴェーダンタ哲学の流れを汲むヨーガの道です。

Cカルマ・ヨーガ(倫理的)

カルマとは「行為」を意味し,社会生活の中で、自分の仕事や行為を通して、人々に奉仕することを修行として捉え、神聖なものへと至るヨーガの道です。

 Dバクティ・ヨーガ(宗教的)

   バクティとは信仰とか、帰依を意味します。神に対して絶対的信頼感を持ち,神に帰し全生活を信仰生活の中に生きるヨーガです。寺院や施設などで奉仕の生活をしたり、聖地を遊行したりする道です。

  Eマントラ・ヨーガ(呪法的)

     マントラとは「真言」と訳されています。神の名や,短い祈りの言葉を繰り返し唱える事  によって大いなる存在と一体になる方法を中心とするヨーガの道です。日本では,念仏  や唱題や真言がそれにあたります。

その他にも、クリヤー・ヨーガ(儀式的)、クンダリーニ・ヨーガ(超能力的)、ラヤ・ヨーガ(心霊的)等もあげられますが、いずれの流派も実際には、これらの要素や特徴を、人や条件に応じて組み合わせられ行じられていますし、また世界の様々な宗教や宗派の特徴や傾向を理解する上でも、このヨーガの行法的分類は、役に立つ事と思います。

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